安國寺の歴史
安國寺の歴史は古く、創建は琉球王国尚泰久王時代まで遡ります。
以下に安國寺の歴史年表を掲載させて頂きます。
資料等の表現をそのまま引用しておりますので読みづらい点も多々あろうかとは思いますが、一読いただければ幸いです。
文永年間の頃何国の僧とは不相知、禅鑑と申僧小船より那覇へ漂着いたし寺を浦添間切に創建、極楽寺と名付侯由、是寺の始めの由御座候。(琉球一件帳〈仏寺ノ初〉雍正拾五年〔西暦一七三二年〕読み下し文)より、この文章が沖縄仏教の始まりであり(英祖六年〔西暦一二六五年〕)これより二百年の後に太平山安國寺は首里の地に創建(天順元年〔西暦一四五七年〕)され、沖縄の古都首里で現在までの五百五十年余りに亘り首里のお寺さんとして続き、二〇〇九年に本堂を再建落成(寺院建築では沖縄史上最大の建築であり、木造建築としては首里城に次ぐものである)となる。
第一尚氏王代
- 一、
- 天順元年
尚泰久四年〔西暦一四五七年十二月一日〕
琉球王國旧首里にて太平山安國寺開山 諸寺重修記併造改諸僧緑由記にあり - 一、
- 天順元年
尚泰久四年〔西暦一四五七年十二月九日〕
安國寺銅鐘大工藤原国吉作成 琉球国舊(旧)記にあり
安國寺銅鐘
西暦一四五六年九月二十三日
琉球の国の王様?時代に魏古城(ワコグスク)と命名された鐘が作られた。めでたいことだ。その時の係の人の名は花城(パーナァグスク)奉行(当時琉球国では奉行という役職名はよく資料などでみかける)、大城(ウフグスク)奉行の二人で、製作者は国吉という者である。西暦一四五七年十二月九日(この場合の月日は旧暦である)
第二尚氏王代・前期
- 一、
- 尚真十六年〔西暦一四九三年〕
特今歳忝賜大藏経、即寄置安國禪寺、以萬世爲國家珍寶也【成宗康大王實禄巻第二七九】
琉球と朝鮮の間に海賊が出没するようになり、尚円王が朝鮮国王に対し使者(当時は堺商人也次郎という者が活躍していた。)を送り挨拶を行なった。そのお礼に朝鮮国王より大藏経を賜り、也次郎の手により琉球へ運ばれ、安國禪寺に納められ、長きに亘る国家安泰を願った。(これにより、安国寺が一四九三年当時には禅寺であったことがわかる) - 一、
- 尚元六年〔西暦一五六一年〕
鄭若曾 琉球図を著す 太平山安國寺現在地に記される - 一、
- 尚寧八年〔西暦一五九六年〕〈丙申〉
安國寺を修繕する【沖縄大百科事典】 - 一、
- 尚寧十五年〔西暦一六〇三年〕
袋中上人琉球往来出る 安國寺西堂 書簡一千字程大安寺に送ると記せられる
(読み下し文)・・・臨済。曹洞。潙仰。雲門。法眼。楊波。黄龍也。苟吾党者。斟臨済正流。左之右之。將来此國向二百歳円覚寺国王御願所伽藍巍々・・・ - 一、
- 尚寧十五年〔西暦一六〇三年〕
袋中上人琉球神道記成る 巻第四に大聖不動明王の道場 太平山安國寺不動明王記す - 一、
- 尚寧十九年〔西暦一六〇七年〕
太平山安國寺西堂 尚寧に請われ島津家久と会見【京都大学資料 那覇市史通史編】 - 一、
- 尚寧二十一年〔西暦一六〇九年〕
王圻 三才図を著し現在地に太平山を見る - 一、
- 尚貞五年〔西暦一六七三年〕〈癸丑〉
安國寺の前に仏殿を創建し、不動明王を安置【沖縄大百科事典】 - 一、
- 尚貞六年〔西暦一六七四年〕〈甲寅〉
安國寺を首里寒川に移転【沖縄大百科事典】 - 一、
- 尚貞二十八年〔西暦一六九六年〕〈丙子〉
尚純王より扁額を賜り(額文 太平山)これを掲げる。
・・・康煕丙子〔西暦一六九六年〕年に至り、尚純王、高く御筆の扁額(太平山)を懸け、以て崇信を為す。【球陽巻七 四六八】 - 一、
- 尚貞三十二年〔西暦一七〇〇年〕以降製作年代不明
首里古地図成る 太平山安國寺の建造物並びに配置が明確に描かれる
首里古地図について
この地図は一七〇〇年に作製されたものである。
これより二年前、江戸幕府から全国各藩に対して、地図を作製提出する様指令があった。恐らくこの地図もその一環として作製されたものであろう。
然しこの地図も時代の経過と共に、損傷が生じ、一八五〇年代には使用に堪えない状態になっていた。
秋姓家譜によると、九世柴俊が絵図書調方筆者として、この地図を再調整したことがみえている。
当時、原図をそのまま写すのが不可能だったので、屋敷図帳、山敷図帳などを参照し、各当事者の意見など聴取する等、丹念に調査照合し、漸く完成することを得、褒美を蒙っている。
この図が一七〇〇年の頃を中心に表示しながら、その後代的要素がみえるのは再製したからである。
図中、約千数百の屋敷並に公署等が綿密に記載され、二七〇余年 の王都の状況を詳しく標示している点、沖縄歴史研究に貴重な史料となっている。
なお、この地図の原図は六帖敷大のもので、東恩納文庫に蔵されている。(嘉手納 宗德)
第二尚氏王代・後期
- 一、
- 尚貞三十三年〔西暦一七〇一年〕〈辛巳〉
不動像を安徳寺(安國寺の誤記)に安置する【沖縄大百科事典】 - 一、
- 尚敬元年〔西暦一七一三年〕
琉球国由来記編集始まる 太平山安國寺日本一国一寺と記せられる
・・・足利尊氏の創意に出ずる安國寺をも創立した・・・【田辺泰著「琉球建築大観」より】
西暦一四五七年尚泰久王代に足利尊氏一国一寺の例に倣い煕山周雍禅師によって太平山(山号)安国寺開山。
西暦一五五七年寺が老朽化したので現在地(首里寒川町)に新設、西暦一五七六年尚元王の頃鐘を修理し、西暦一六二一年に尚寧王一周忌が執り行われた。
尚豊王の協力で友寄喜恒画に描かれた寺域となり不動殿も新しく造られた。
- 一、
- 尚敬元年〔西暦一七一三年〕
恵日御拝 安國寺不動御宝前 毎月廿八日 定本琉球国由来記(三一頁)に記せられる
天女堂保管の蔵経が奉納された。 - 一、
- 尚敬七年〔西暦一七一九年〕
冊封副使 徐葆光来琉 著書中山伝信録(尚敬九年〔西暦一七二一年〕〈辛丑〉)を著す
太平山安國寺琉球王國中の安牘みな此の寺中に儲ふを著す【中山伝信禄】
※安牘とは、切支丹改めの宗門札(手札)である。毎年十二月、成人以上の男女すべて、行脚乞食に至るまで、桧で作った宗門札を銘々に渡し、その札に身分・性別・年齢を記入し、更印をうける。改めの当日、旧札を削り、その削り屑を役人の前で焼却した上で記入する。 - 一、
- 尚敬七年〔西暦一七一九年〕
新井白石 南島史を著す 安國寺を見る - 一、
- 尚敬十七年〔西暦一七二九年〕
琉球王国正史球陽に太平山安國寺知行高六石を王府より賜るを見る【球陽巻】 - 一、
- 雍正七年
尚敬十七年〔西暦一七二九年〕
薩摩文書琉球一件帳に役知寺の所に安国寺拾弐石賜る - 一、
- 尚穆五年〔西暦一七五六年〕
冊封使 周煌来琉 太平山安國寺「 主 善 爲 師 」の書を賜る【ハワイ大学ホーレー文庫 俾文記】 - 一、
- 尚穆二十二年~同二十七年二月まで〔西暦一七五六年~同一七七八年まで〕
魏学源 太平山安國寺にて大清律例を官氏に指導する【沖縄大百科事典】 - 一、
- 尚泰弐年〔西暦一八四九年〕
琉球王国評定文書よりイギリス宣教師ベッテルハイム来寺し茶会を催す【琉球王国評定所文書 第八巻】
明治以降
- 一、
- 明治六年〔西暦一八七三年〕
大蔵省調内閣文庫蔵琉球藩雑記に公寺(役知寺ともいう) 安國寺 仮知拾弐石物成三石余 境内地五百坪余 住職 大貫長老を見る - 一、
- 明治十年〔西暦一八七七年〕
伊地知貞馨著 「沖縄志」出る 太平山安國寺見る - 一、
- 明治十四年〔西暦一八八一年〕
友寄筑登之喜恒 バンザイ嶺(現慈眼院附近)から見た安國寺を含む首里図を作成する(バンザイ嶺より描かれる)
恵姓家譜(原本)尚泰王世代 四世 友寄喜祥 次男 喜恒
※一世真鶴(原本)因兄喜宣夭亡請諸司為嫡子と記されている
名嘉真家
※新参家譜 【那覇市史 那覇・泊系家譜】 - 一、
- 明治十七年〔西暦一八八四年〕
円覚寺、天王寺、天界寺が私寺となり太平山安國寺臨済宗妙心寺派沖縄県本山となる【沖縄大百科事典】
かくして安国寺は円覚寺に準じて、名実共に臨済宗派の本寺の地位を得たのである。安国寺が名目の上で臨済宗派の本寺たる資格を得たのは、明治十七年に円覚寺外四ヵ寺の私寺移管後、同十八年十月十四日第三百四十四号の「安国寺ヲ円覚寺ニ準シ仮リニ本寺トシ慈眼・慎終両寺ヲ天王・天界ノ資格ヲ有セシメ度儀ニ付伺」をもって、臨済宗の本寺承認方を上申したのに対し、同十九年二月六日内務省無号で資格の件は管長に申し出るべき旨の達があり、直にその意を寺院へ下達したところ、安国寺を本寺とし紫衣一等に、慈眼・慎終両寺は黄衣の位になった。そしてその後は、安国寺が円覚寺の後職を継いで、臨済宗の本寺たる資格をもって該宗を統括して来たのである。それが二十年から、経済的にも本寺たるの資格を得たわけである。【琉球宗教史の研究 五八四頁】
- 一、
- 大正三年〔西暦一九一四年〕
志佐鳳州和尚、首里安国寺を本拠にして沖縄の廃寺同様の数寺の復興に当たる。【照太寺史】 - 一、
- 昭和八年〔西暦一九三三年〕
五月二十三日 円覚寺国宝認定となり、太平山安國寺が沖縄県臨済宗妙心寺派本山の為、住職永岡敬淳和尚が一家揃って移住し二寺(安國寺、円覚寺)を管理する。【薩摩文書】 - 一、
- 昭和十二年〔西暦一九三七年〕
田辺泰著「琉球建築大観」に足利尊氏の創意に出ずる安國寺をも創立を見る。【琉球建築大観】 - 一、
- 昭和二十年〔西暦一九四五年〕
三月二十六日そして再度四月一日 ニミッツ布告(海軍元帥)により、すべての国有私有財産有形無形を問わず、財産管理官に委ねると記す。 - 一、
- 昭和二十年〔西暦一九四五年〕六月二十三日
第六十二師団 二二三中隊 永岡隊(永岡敬淳以下百五十余名)首里より転戦しつつ旧摩文仁村山城にて戦死(残余数名)(二〇〇八年に御子息永岡正行様に同行願い現住職と共に山城の壕にて最終の確認を得る。永岡正行様は戦後すぐ生存者と共に訪れている) - 一、
- 昭和三十七年〔西暦一九六二年〕
鳥取県の弥勒寺より、安國寺が保管、先の大戦で軍事献納していた天王寺の天竜精舎乃鐘が南方同胞援護会の協力により沖縄に戻り、県立博物館へ移管する。 - 一、
- 昭和四十九年〔西暦一九七四年〕
二月十二日 宗教法人安國寺 沖縄本土復帰(復帰特別法第四七条)に基づき宗教法人安國寺設立。
住職 永岡智裕。 - 一、
- 平成二十一年〔西暦二〇〇九年〕
本堂落成。
住職 永岡理秀。